• 8月 5, 2025

ある日突然

まるで出口の見えないトンネルの中にいるかのように、歩いても歩いても光が見えない。 立ち尽くして茫然としてしまう。 私たちの人生は、常に光の中にあるわけではない。 仕事、子育て、人間関係、経済的な不安。 絶望に打ちひしがれつつ、それでも歩き続けていると、「ある日突然」降ってきたかのように、ふっと心が軽くなり、新たな道が開ける瞬間が訪れることがある。

奈緒子さんも、そんな経験をした一人だ。仕事に、思春期のお嬢さんの子育てに、毎日を忙しく過ごしていた。お嬢さんの心と体の健康を第一に考え、自身のことは常に後回し。アルバイトで帰りが遅くなるお嬢さんのことが心配で、夜もなかなか眠れないと話していた。きっと、優しく、きめ細やかで、裏表のない方なのだろうと感じた。職場の人間関係にも悩みが尽きなかったようだ。

そんなある日、診察室に入るなり奈緒子さんは開口一番、「もう、娘のことで心配するのやめました!このままでは身が持たないと思って」と、とてもすっきりした表情で話してくれた。「もうやーめた!」と心から思った瞬間、本当に気持ちが楽になったのだという。心配というのは、やめようと思ってもなかなかやめられないものだが、そう決めて以来、驚くほど楽になったそうだ。とことん悩み、心配し尽くした時に、ふっと憑き物が取れたように心配を手放すことができた奈緒子さん。以来、少なくともお嬢さんのことに対して過度に悩むことはないようだ。

雅代さんは、明るい髪の色が印象的な、上品なご婦人だ。連れ合いを早くに亡くし、女手一つで息子を立派に育て上げた。今は、コーラスサークルでの活動や友人との交流を楽しみ、充実した日々を送っている。本人は自覚がないが、睡眠中に大声で叫んでしまうことがあるという悩みで来院した。息子に指摘されて気づいたそうだ。

何度か通院する中で、雅代さんが同居している息子について話すことはほとんどなかった。こちらもあえて深くは聞かなかった。薬が効いて、夜中に叫ぶことは徐々に減っていった。そんなある日、雅代さんは診察室に入られるなり、こんなことを話してくれた。「息子が私の言うように振る舞わないことを腹立たしく思っていたのですが、どうでもいいと思うようになりました。なぜかわからないけど、これまでは私が息子より上だと思っていて、苦手なパソコンのことを息子に聞くのが癪だったんです」と。長年心の中にあったわだかまりが、ある日突然、溶けていくのを感じられたのだろう。

水が水蒸気に気化するためには、100度まで温度が上がる必要がある。突然の変化が起こるためには、心の奥底で、同じような現象が進行しているのではないだろうか。意識しないうちに少しずつ少しずつ心の温度が上がり、ある時、沸点に達する。そして、それまで抱えていたものから解放され、新しい自分に出会うことができるのだ。

奈緒子さん、雅代さん、二人に対して、私は特別何かをしたわけではない。娘のこと、息子のことに対して、具体的なアドバイスをしたわけでもない。もし何かしたとすれば、それは、二人が自身の心の内を話せる「10分間」を提供したこと。その時間が、彼女たちの心の沸点を上げることに少しでも役立てたとしたら、とても嬉しい。

私も、人生の一大決心をしたのは、「ある日突然」のことだった。ある秋の朝、通勤する車中、いつものようにレッドツェッペリンを大音量で聴いていた時である。銀杏並木が鮮やかな黄色に染まっていた。あの時、私の心もまさに沸点に達したのだろう。

もし今、あなたがどんな小さなことであれ、何かで悩んでいるなら、それは心の温度が少しずつ上がっているサインかもしれない。

そしてそれは、変わりたいという心の叫びかもしれない。

積木の街通りクリニック 042-741-5560 ホームページ