- 7月 8, 2025
フクロウの棲む森
帰り着くと、決まって玄関の靴箱の上にはダイレクトメールの小山ができている。その崩れかけた山のてっぺんに、宛名が手書きの一枚の葉書が載っていた。差出人は、年に一度は誰かの誕生日だとか、何かの口実を見つけては家族総出で出かける、我が家の止まり木のようなあのレストランである。いつものシチューフェアの案内にしては、ひどく陰気な色合いの葉書だ。嫌な予感がして裏返すと、オーナーシェフが亡くなり、店を閉めるという嫌な予想を超えた知らせだった。今年の四月に病で、享年六十九歳だという。思えば一月に訪れた折、ずいぶん痩せたように見えたが、まさかあれから三月と少しで、こんなことになろうとは。鈍色の悲しみが胸いっぱいに広がる。
オーナーシェフと、すらりとしたフロアマネージャーの女性、たった二人で切り盛りする小さな店だった。聞けば二人とも元教師で同僚、シェフは国語、フロアマネージャーは美術を教えていたという。大抵、予約して夕食に出かけるものだから、他にお客がいることは稀で、まるでその空間も、そこに佇むお二人も、すべて私たち家族のためにあるような錯覚に陥る。内装はこざっぱりと洒落ていて、大きなガラス戸の向こうには小さな中庭が広がり、木漏れ日が差し込む林の中にいるような心地がした。壁には店のファンとおぼしき作家たちの絵画や陶芸が飾られている。中でも目を引くのは、あちらこちらに置かれたフクロウの置物だ。ヨーロッパでは智慧の象徴だという鳥。生けられた草花は、わざとらしくなく、野辺に咲くような可憐なものばかり。料理を待つ間、それらをまるで展覧会のように眺めるのが常だった。
運ばれてくるご馳走たちは、これ見よがしなところが一切ない。素材の持ち味を大切にした、滋味深いものばかりだ。定番のビシソワーズは、小さなガラスの器に注がれ、それが一回り大きな器に張られた冷水に浮かんでいる。その水の中には、まるで水中花のように野辺の草花が漂っている。 それが一人ひとり異なるのがまた嬉しい。
全く気取った雰囲気ではないのに、ここへ来ると、普段は心の奥底にしまい込んである静けさが、ひょいと顔を出す。やかましい子供たちも、なぜか行儀よく、それぞれの話に耳を傾ける心の隙間ができるようだった。「美味しいね」と、皆、舐めるように一皿ずつ平らげ、焼き立ての丸パンをお代わりするのが常だった。
もっぱら私たちのお相手をしてくれるのは、スラリとした立ち姿にロングドレスがよく似合う、上品なフロアマネージャーの女性だ。さながら森の女神である。シェフは全ての料理を出し終えてから、ようやく厨房から顔を出す。こうして文章にしたためて、初めて気がついた。コック帽をかぶり、白い料理長の服に身を包んだ、小柄で少しふくよかな、あの元国語教師のシェフは、 実に折り目正しい話し方で、知的な雰囲気をまとっていた。 脳裏に思いだされる立ち姿は、フクロウそのもの。 この方こそ、フクロウの親分だったのだ。 食後、少しばかりおしゃべりをして、記念写真に納まってもらい、名残惜しさと共に手を振って店を後にする。
私たちが当たり前のように享受していたこの空間、時間、そして数々の美味しい料理。それを生み出すために、お二人はどれほどの舞台裏の苦労を重ねていたのだろうか。思いを馳せるにつけ、胸が締め付けられる。
特別な場所を失った喪失感に苛まれながら、ふと、私は気がついた。私たちがあのレストランへ足を運んでいたのは、ただ美味しいものを食べるためだけではなかった。あのお二人の、温かく、そしてどこか凛とした存在に会いに、あの空間へ通っていたのだ、と。その思いに至った時、不意に、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなった。
私の特別な森のようなレストランは、もうない。森の入り口は、堅く木々に閉ざされてしまった。親分がいなくなった後、森に住むフクロウたちは、一体どこへ行ってしまったのだろう。積木の街通りに、一羽でもいい、ひょっこり飛んできてはくれないものだろうか。

ドクダミの花がこんなに可憐だと初めて知った日。