• 7月 10, 2025

闇の中の一歩を照らす光

「もう、無理です!」

切羽詰まったその言葉は、さやかさんの心の叫びだった。彼女の22歳になる娘さんは、心の不調を抱えている。薬の調整がうまくいかず、ここ数日、夜になると情緒がひどく不安定になった。隣で眠るさやかさんを揺り起こし、「助けて!」「ママ!」と悲痛な声を上げるのだ。

さやかさん自身、日中は仕事に追われ、帰宅はいつも遅い。心身ともに疲れ果て、ようやくたどり着いた束の間の休息。そんな中で愛する娘に助けを求められても、すぐに抱きしめてあげられない自分がいた。「うるさい!」「あっちへ行って!」と、思わず声を荒げてしまう。そして、深い自己嫌悪に陥る。

ある明け方、いつものように娘さんに起こされたさやかさんは、ついに張り詰めていた糸が切れ、彼女自身が大声で泣きわめいてしまった。その声に驚いて起きてきた息子さんが、「ほら、下へ行こう」と静かに妹を促したという。

相談に来られた彼女の顔には、誰の目にも明らかなほど、深い疲労の色が浮かんでいた。「娘に『お母さんに迷惑をかける自分が情けない』と泣かれてしまって…」そうつぶやく彼女にかける言葉を、私は見つけられなかった。ただ祈るような気持ちで、その背中を見送った。


二週間後、再び現れたさやかさんの表情は、相変わらず疲れを滲ませてはいたが、どこか吹っ切れたように見えた。薬の調整が少し落ち着き、娘さんが夜中に不安定になることは減ったという。

「実は…」と彼女が話してくれたのは、あるクリスチャンの先輩とのことだった。同じ教会に通う、ひと回り年上の尊敬する女性。わらにもすがる思いでLINEを送ったところ、一通の手紙が返ってきたという。彼女が見せてくれたコピーには、英語の賛美歌の一節が記されていた。

Lead, Kindly Light, amid the encircling gloom, Lead Thou me on!

(私の周りを取り巻く闇の中、主よ、その光で私を導いてください)

その歌はこう続く。

The night is dark, and I am far from home;

(夜は暗く、私は家から遠く離れています)

そして、最後の歌詞が、さやかさんの心を強く打った。

Keep Thou my feet; I do not ask to see The distant scene—one step enough for me.

(私の足元をどうか照らしてください。 遠い景色まで見通したいとは願いません。 私には、ただこの一歩だけで十分なのです)

「ずっと先のことまで見なくていい。ただ、今日この一歩を踏み出すのを支えてくだされば、それで十分」

さやかさんは言う。「その日一日がどんなに大変でも、なんとか乗り越えて、次の朝、娘の顔を見て『さあ、仕事に行こう』と思える。それだけで十分なのかもしれない、と。今日一日、ただ今日一日だけでいいんだって」

嬉しいことに、と彼女は続けた。娘さんが不安定だった日の翌日、久しぶりに家族5人全員で、お気に入りのお店へ夕食に出かけたという。「娘が、ビールを飲みたがったんですよ」そう言って見せてくれた写真には、やや仏頂面をした娘さんと、それを見守る家族の穏やかな時間が写っていた。

私たちの人生は、深い闇の中で一条の光を探す旅路に似ているのかもしれない。。闇が深いほど、希望の光は、かくも温かく、そして力強く輝くのだと、さやかさんが去った後、その思いが心に残った。 

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