- 8月 18, 2025
巣立つ日まで
長年、精神科医をしていると、10年以上の関わりがある患者さんがぽつぽつといらっしゃる。すると自然と、中学生だった子が二人のお子さんを持つ親になったり、不登校だった子が大学院に進んだり、仲の良いご夫婦が離婚したりと、家族の歴史に立ち会うことになる。これは、そんなあるご家族のお話だ。
尚子さんは看護師として忙しい日々を送っている。彼女の連れ合いは大学で経済学を教えている。真面目な人だが、とにかく理屈っぽい。尚子さんは、結婚以来、自分の気持ちを分かってもらえないことにずっと辛さを感じていた。一生懸命説明しても、話はどんどんずれていく。そんな中、子どもが不登校になったことをきっかけに、子育てや連れ合いとの関係での不眠に悩み、外来に通うようになった。
当時、二人の子どもたちはまだ小学生だった。月に一度、時には二週に一度と通ううちに、何か問題が解決したわけではない。けれど、子どもたちの成長、そして尚子さん自身の趣味、特にテニスなど体を動かすことで交友関係が広がり、少しずつ心身が軽くなっていった。最近では、頓服の睡眠薬をもらいにくるついでに、最近あった面白い出来事を面白おかしく話してくれるようになった。
尚子さんの長男は大学4年で1年間の留学を終え、長女は大学3年。二人とも料理上手だという。「私は料理が好きじゃないんですけど、不思議ですね」と尚子さんは笑う。「でも我が家はみんな美味しいものが大好きで、食いしん坊。親子の情なんてなく、美味しいものは取り合いになるんですよ」とのこと。 相変わらず、彼女の連れ合いはマイペースで、気持ちが通じないことが多いらしいが、子どもたちが成長して、尚子さんと同じ気持ちになることも多いようで、「子供たちが理解者になってくれているだけ楽になりました」という。
7月、娘さんの誕生日。忙しかった尚子さんは、家の近くに新しくオープンしたレストランを17時に予約した。家族LINEで場所と時間を共有することも忘れていなかった。
ところが、約束の時間になっても連れ合いが来ない。息子さんの話では、息子さんのスマホプラン変更のために一緒にショップへ行ったという。時間に余裕を持って出かけたはずなのに、連れ合いは自分のスマホが壊れかけていることに気づき、そのまま自分のスマホの買い替えとデータ移行を始めてしまったのだ。 これは時間がかかるだろう。 娘の誕生日に何をやっているのかと、あきれ果てる尚子さん。 案の定、電話をかけてもつながらない。
子どもたちも事情を察して、お店の人にお願いし、先に食事を始めた。しかし1時間経っても連れ合いは現れず、メインディッシュの時間になる。さすがに子どもたちもやきもきし始めた。その時、自宅の電話から息子の携帯に連絡が入った。「場所がわからないから迎えに来てほしい」とだけ。息子さんは思わず、「なんか、言うことがあるんじゃないの」と電話口で言い放った。そして、仕方なく家に向かった。
15分ほどして、息子さんだけがレストランに戻ってきた。彼は激怒していた。父親に怒鳴られたので、途中で置き去りにしてきたのだという。まだまだ子どもだ…。尚子さんはため息混じりに、自分が迎えに行くことにした。
レストランのすぐ近くで、連れ合いがうろうろしていた。なんだか情けない姿で、少し可哀想になったので、ちょっと優しくしてあげたのだという。
ところが、連れ合いとレストランに戻ったところ、息子の怒りが収まらず、「このままいたら、喧嘩になりそうだ」と息子は帰ってしまった。
小さなレストランには、尚子さん一家しか客がいなかった。シェフとフロアマネージャーはご夫婦なのだろう。とんだところを見られてしまったが、こんなことでくじける尚子さんではない。娘さんはさすがだった。何事もなかったかのように、帰ってしまった兄のメインディッシュのステーキを平らげた。
しかし、まだ続きがあった。デザートを前にして時計を気にしていた連れ合いが、「8時までにスマホを取りにショップに戻らないと」と言い出した。「明日じゃダメなの?」と聞く尚子さんをよそに、つっけんどんに帰ってしまったのだ。
残ったのは女性二人。娘さんは「初めから女子だけの方がよかったわ」と言った。お店の人に頼んで、デザート4人分を二人のお皿に盛り合わせてもらい、美味しくいただいたそうだ。
私は一連の顛末を聞いて、尚子さんの顔を見た。その目が笑っていたので、安心して大笑いした。大切な娘の誕生日に、スマホの買い替えを理由に大幅に遅れ、あげくの果てに途中で帰ってしまった彼女の連れ合い。ある意味とんでもない話だが、それを笑い飛ばせる家族の歴史がそこにあった。
後日談を次の診察の時にうかがった。 尚子さん一家は食いしん坊なので、それぞれの誕生日やクリスマス、正月にはごちそうが欠かせない。
8月は連れ合いの誕生日。還暦を迎えるので、ちょっと豪勢にしたいところだった。しかし、太りすぎを心配した子どもたちは「薬膳パーティ」にすると言い出した。尚子さん、娘さん、息子さんの三人は朝から買い物に行き、高麗人参や野菜など、身体に良さそうなものを買った。
息子さんは高麗人参などを鶏肉に詰めて煮込む韓国料理「サムゲタン」を、娘さんは何品もの野菜料理を用意した。ちなみに、買い物の最中、娘さんはずっとぶつぶつ文句を言っていた。「なんで私が、あんなひどいことをしたパパにこんなに尽くさなきゃいけないのよ!」。
娘さんの誕生日のプレゼントに、尚子さんは奮発して欲しがっていたハンドバッグをあげたが、彼女の連れ合いは包装もせずに「経済学の本」をくれたのだという。それも、父親の愛情なのだろうか。「そうでしょうね。ずれてますけど」と尚子さんは笑った。
それでも何時間もかけて何品も料理を作る娘さんは、優しい。父親と大喧嘩した息子さんも、翌日からは何事もなかったかのように振る舞っているという。
尚子さんは何を作ったのだろう。「私は盛り上げ役で、100円ショップでクラッカーやパーティーグッズを買って、紙袋とアルミホイルで王様の冠を作ったんです」と教えてくれた。お茶目な人だと知った。
彼女の連れ合いは王様の冠を喜んでかぶり、「今日の主役」というタスキをかけて食卓に着き、ごちそうに大喜びしたという。「娘はずっと仏頂面だったけどね」と尚子さんは続けた。
家族という形は、歳月を経て移り変わり、そしてやがては消える。残るのは、それぞれの心の中に、確かに家庭があった、心の触れ合いがあった、食卓を囲んだ、という確かな記憶なのだろう。尚子さんの家族も、もうすぐ巣立ちの時を迎える。

積木の道通りからクリニックに入ったらすぐに振り返って真上を見てください。 今は空になったツバメの巣があります。 写真を撮ったときは巣立ちを控えたヒナの頭がのぞいていました。